春樹と緑

島崎春樹(藤村)と緑(みどり)


[2009年3月20日6時18分]

 タイムマシンで見てきたわけではないので、私的な知識である。私は島崎藤村の生家の隣村に生まれ、馬籠(藤村の生家)のあたりが遊び場だった。藤村が亡くなったのが昭和十八年頃だった。それでご年配の村民には、実際に島崎家と交流のあった人もあり、島崎家は馬籠の庄屋、本陣だった。生家は記念館になっていて、藤村の勉強部屋まで保存されている。
 ばりばりのぼっちゃまで、父の正樹は国学者であった。その一生をモデルにしたのが「夜明け前」である。
 八切止夫という小説家が、同和問題に詳しく、穢多、非人の始まりは、ヨツ、ヤツ、といわれる騎馬民族系の祖先を持つ日本人としていた。
 北条時宗の時代に元寇があり、戦いが野蛮で騎馬民族は残酷という気風から、ヨツ、騎馬民族を差別したのが始まりといわれている、と書いてた。織田信長は、そういう差別が嫌いで、つまり新しい物が好きな人で、被差別人を晒す習慣をやめさせたり、寺院の荘園で奴隷のように扱われていた被差別民を解放し、解放者として信奉する人もある。
 そして、藤村が「破戒」を小諸で自費出版したことで、被差別民、つまり穢多(エタ)という概念が一般化した。それまで、一般には知られていなかったのを、藤村が「差別」を有名にしてしまった、という皮肉な結果になった。藤村は血縁者との恋愛などを小説にしたので悪評もあるが、四十代にフランス留学し、当時のフランスの様子を新潮社に書き送った原稿料を滞在費にした。非常に差別的な感覚が観られるが、時代が時代なので、それが普通の感覚とも言えた。

 教師として小諸に赴任したとき「破戒」を執筆した。藤村は差別を憎んだつもりで書いたのだが、世間の波紋をよび被差別民とされる人たちからも抗議があがった。同和問題は、私の県では西にそういわれる地区があった。「東」に生まれ育った私は、差別問題に疎かった。ご近所で、しかも本陣に生まれた藤村も、はじめは差別問題に疎かったと思われる。明治大学出身の秀才で、フランス留学までした、当時としては浮世離れした贅沢な身分だった。しかし、それはそれで藤村の悩みであることは、いろいろな作品に反映されてる。
 女中に煮炊きさせて、据え膳でご飯を食べてた人だ。東京でも小諸でも、質素な暮らしだったとされているが、馬籠は、都会の人には解らない閉鎖的な山奥である。木曽山脈は、江戸時代、尾張藩の領地だった。
 木曽の檜は、銘木とされているものは豊臣秀吉が、京都に寺社を建てるのに使っている。江戸時代には、植林された木を自由に切ってはいけないので、大層農民は貧窮した。
 木曽路の入り口で育った私は、平成生まれの人には信じられないような田舎暮らしをした。そのなかで島崎家は名家として、一般人の生活の苦労はしなかった。藤村が小諸で「破戒」を執筆中に患い、病死した娘の名前を「島崎緑」という。

 島崎春樹(藤村)は、明治五年(1872年)3月25日(旧暦二月十七日)中山道馬籠宿の旧本陣に生まれた。明治十四年遊学のために上京したが、これは父、正樹が座敷牢に幽閉された、そこから離すためとも言われている。父、正樹は国学者で、幕末から明治へと移る激動の時代を、尊皇攘夷思想と、木曽に生きる人の生活にその一生を燃やしつくした、と言える。父をモデルにした島崎藤村『夜明け前』にくわしい。九歳の時に別れたままの父と故郷馬籠へのこだわりはなぜあるのか、九歳の子供が東京へ行き、育ち、「木曽路はすべて山の中」と書かれた馬籠を思い続けた理由は、当人にしか分からない。

 泰明小学校の同窓生、評論家の北村透谷と親しかった。時は日清戦争の直前、北村透谷は精神的に追いつめられて二十七歳の若さで自殺している。春樹は明治学院でクリスチャンの思想に触れ、西洋文化に目覚めるが、明治女学校の教師になったとき、女子生徒佐藤輔子とのプラトニックラブが噂になり、教職を辞して放浪の旅をしている。

 十五歳の時他界した父、北村透谷の自殺など、春樹の青春には死がつきまとっている。親や友人なら、誰もが死別を体験するが、春樹の場合、父・正樹は幽閉された後亡くなっている。 1894年(明治二十七年)、女学校に復職したが、透谷の自殺後、兄の秀雄が水道鉄管に関連する不正疑惑のため収監され、翌年には輔子が病没。この頃のことは後に『春』で描かれた。
 学院卒業後に北村透谷の雑誌『女学雑誌』に寄稿を始めた。その後東北学院教師となり、『若菜集』を刊行した。『一葉舟』『夏草』を刊行後、明治三十二年に函館出身の秦冬子と結婚した。東北学園は一年で職を辞した。『若菜集』にある『初恋』は、馬籠の手打ち蕎麦店「恵盛庵(けいせいあん)」の割り箸の袋にも書かれている。馬籠に林檎を作っている農家はないので、違和感を感じたものだが、東北学園教師時代に見聞きしたことが題材であれば納得がいく。詩とは、著者の一生を調べないと理解出来ないようだ。

 藤村は「大江磯吉」という人を「破戒」のモデルにした。その藤村の目線に、違和感がある。
以下引用

長野の師範校に教鞭を執つた人で、何んでも伊那の高遠邊から出た新平民といふことで、心理学かなにかを担当してゐた一人の講師があつた。(中略)頭脳が確かで学問もあつて、且人物としても勝れて居たといふ。(中略)其人に私は会つた事はないが、新平民としては異数な人で、彼様云ふ階級の中から其様な人物の生まれたといふことが、ひどく私の心を動かした。(次から解説)さらに藤村はそのなかで「High Class」=「開化した方」と「Low Class」=「開化しない方」の「新平民」という二分類も行っており、『破戒』の主人公、瀬川丑松、そして猪子蓮太郎は「High Class」=「開化した方」の筆頭に位置していたことになります。藤村によれば、前者は「容貌も性癖も言葉づかひなぞも凡ての事が殆ど吾々と変はる所はない」のに対して、後者は、「容貌の何となく粗野で、吾儕の恥かしいと思ふことを別に恥かしいとも思はない風である。顔の骨格なぞも吾儕と違つて居るやうに見える。殊に著しいのは皮膚の色の違つて居ることだ。他の種族と結婚しない、中には極端な同族結婚をするところからして、一種の皮膚病でも蔓延して居るのではないかと思はれる」というのでした。ここに示されている「開化しない方の新平民」に対する認識は、『破戒』のなかでも、丑松の同僚の土屋銀之助が、丑松を被差別民であるはずがないと思って丑松をかばったときに語る被差別民観そのまま重ね合わせられるものでした。それは『破戒』のなかに貫かれている、同和問題は「人種の偏執」によるものであるという藤村の認識を如実に映し出していました。

引用終わり
中尾健次 黒川みどり 「続 人物でつづる被差別民の歴史」 解放出版社

 私は、ある男性に「女【なのに】『テロルの現象学』を読んでいる(からすごい)」と「誉められた」ことがある。藤村が「その筋の出身【なのに】優れた人がいるというので感心した」という意味のことばと重なって、いやな気持ちになった。
 これは「触穢思想」というもので、発想は同じところにある。死や血を穢れたものとしてみる。それで牛馬の処理を仕事としている人、皮革を作っている人、あとは、外国などでは死刑執行人などは厭われた時代があった。
 幕末の蘭学黎明期、腑分けなどは、医師みずからでなく、エタ、非人と呼ばれる人々が行った。戦時の遺体の後始末も仕事にしていた。社会的な階級からはずされていたため、年貢などを納めることはなかった。御典医も、将軍の脈をとるので身分は高かったが、士農工商の社会的区分けの「外」にされていた。
 江戸中期、士農工商の身分のしたに人間扱いしない身分を作った。農民も畑よりは水田に働く人が重視された。武士の俸給が石高で表されていることでもわかる。収穫の殆どを納税していた農家の貧窮と、そのさらに「下」の身分を作ることは無関係でない。
 同じように、女性も血にまみれて穢れが多い、と区別する。日本では古事記の、イザナギノミコトがイザナミノミコトの死に触れて穢れを水で清めた、あたりからすでにあった。イザナミノミコトの死因は産褥である。
 同和問題ジェンダーは発生を同じくする。その男性は何気なく書いたと思われる「女なのに」と。藤村も何気なく「その筋の人なのに」という意味のことばを書き残してしまった。大江磯吉は飯田市に生まれ、祖先は芸をして旅で流れてきた人だ。松本の長野県師範学校を卒業し諏訪の小学校に赴任したが、「新平民」であるため、一週間で排斥された。大阪から鳥取最後は兵庫県の柏原中学校の校長になった。1902年に腸チフスで他界している。

参考文献

八切止夫 「日本古代史入門」 作品社
脇田修 「部落史に考える」 部落問題研究所
宮武利正 「部落史ゆかりの地」 解放出版社
中尾健次 黒川みどり 「続 人物でつづる被差別民の歴史」 解放出版社
島崎藤村 「夜明け前」 新潮文庫
島崎藤村 「破戒」 新潮文庫
河盛好蔵 「藤村のパリ」 新潮文庫
藤村記念館パンフレット
中山道 馬籠 清水屋資料館パンフレット
ドナルド・キーン 角地幸男 訳 「明治天皇」(一)新潮文庫
司馬遼太郎 「胡蝶の夢」 新潮文庫
「落合郷土史岐阜県中津川市
ロバート・W・コンネル 森重雄・菊池英治・加藤隆雄・越知康詞 訳 「ジェンダーと権力 セクシャリティーの社会学」 文化科学高等研究院
ブノワット・グルー 山口昌子 訳 「フェミニズムの歴史」白水社
カトリン・アスパー 老松克博 訳 「自己愛障害の臨床 見捨てられと自己疎外」
川端俊英 「島崎藤村の人間観」 新日本出版社


[2009年3月20日6時18分]

 藤村記念館の入り口で、切符売りのご婦人に、
「筑摩郡って、私には違和感があるんです。親戚が神坂にあるので、藤村堂というと神坂というイメージです。」
とことばをかけた。ご婦人は、
「あら、私には、筑摩郡のほうが馴染むんですよ。神坂も昔は長野県だったんです」
と朗らかに答えてくださった。

 今は神坂は、岐阜県であるが、昔は、長野県の神坂と岐阜県の神坂があった。その隣村、私の生まれた落合は、恵那郡落合村だったが、1956年(昭和31年)9月30日に、中津川市編入されている。私の生まれる前の話だが、幼いときに、旅の劇団の芝居などを見るため、公民館に行くと、「恵那郡落合村」と幕に刺繍されていたのを記憶している。その公民館は老朽化して取り壊された。
 湯舟沢地区は岐阜県、山口村、馬籠村は長野県。神坂では、目の前に中津川市の神坂小学校があるのに、遠くの長野県側の小学校へ行かねばならず、長く学区問題が残った。田中康夫知事のとき、馬籠は中津川市になった。このとき、「馬籠は中京文化圏」という人、「馬籠は信州」という意見に分かれ、地方局などではかなりニュースとして採り上げた。

 私的な見解では、馬籠を含めた木曽全体が、中津川市の繁華街に買い物を求め、木曽の上松に住む大伯母など、「中津川に大きな店が出来た」と喜び、娘さんの車に乗って買い物に出かけていた。私の家も多少複雑な雰囲気の家で、落合に生まれたものの、親戚は飛騨、木曽、中津川、愛知県の春日井市と、幼い時期は中京文化圏を広範囲に泊まり歩いた。木曽であれば、買い出しをしたければ、木曽福島か中津川を選ぶしかない。馬籠は坂道の集落で、一番高い所から、真下に中津川の町並みを望む。中央アルプス木曽山脈)か、独立峰か、山岳家の意見も分かれる所ではあるが、恵那山の懐に抱かれた扇状地であり、恵那山の尾根筋を違えた隣同士、といった風情である。

 木曽福島は鉄道が敷かれた後大火に遭い、本陣、脇本陣は殆ど跡をとどめない。藤村の姉が本陣に嫁いだことから、藤村の手紙が焼け残り、展示されているだけである。他は父正樹の漢文の掛け軸などがある。妻籠の資料館で、なぜ本陣は形骸をとどめていないのに、脇本陣はある宿場が多いのか訊いた。幕府の管轄であった本陣は、薩長の明治政府から援助を切られ没落し、脇本陣は副業に酒屋などをして裕福になり、明治のどさくさにまぎれて、檜とそれに準ずる山の樹を自由に使い、立て直したので残ったそうだ。馬籠の脇本陣は、「初恋」のモデル「おゆう様」が嫁いだ家である。背の低かった女性の、手の届く限りの板壁を毎日磨いたのだろう。手の届かない上部だけ煤け、おゆう様が磨いたと思われる部分だけつやつやしていた。板戸の上には藤村の書簡が飾られ、明治天皇ご逗留のために作られたトイレは玉砂利がしいてある。

 藤村も著作の中で、恵那山の雪景色などを多く描いている。恵那山の向こう側は伊那方面、こちら側は中京文化圏、といったところであろうか。筑摩県第八大区五小区馬籠村から長野県木曽郡山口村となり、今は、岐阜県中津川市である。
 落合村の月垣という地区に、特攻に追われた、プロレタリア文学葉山嘉樹が隠れ住んでいた、という歴史もあり、落合には左派的な思想が集まるので、東濃(東美濃地方)の中では異彩を放っていた。そのなかで育てられた私は、小中学校の先生からは「綴り方教育」といわれる、全国的にも希有な教育を受け、家に帰れば、親が「先生はアカだ」と罵り、昭和天皇が国道十九号線を御幸あそばされたとき、日の丸を振れ、という親と、いやだという私の親子喧嘩が起きた。物心つかないうちから思想的な洗脳があったと思う。

 それは、幕末から明治にかけて、政治的な思想を生きた、藤村の父、正樹に通じる土地の気風であるように感じる。中津川から平田流国学者を招いて勉強した正樹の政治、歴史に対する姿勢は、昭和になり左翼活動に中心は移ったが根本的には似ていると思う。

 原家は、伊那高遠藩の藩士であったが、享保19年(1734年)木曽馬籠に移った。五代目原平兵衛は組頭、六代目、平兵衛は宿役人、維新後、福戸長も明治15年に戸長(村長)となった。七代目、原松太郎は郡会議員、八代目、原一平は村長となった。「夜明け前」に登場するモデルである。

 藤村の娘、みどり、孝子、縫子は夭折している。藤村は馬籠村への手紙の中で「みどり、孝子、縫子の名を小さく並べて、子供の墓らしく刻したひと思ひます」と書いている。みどりは小諸でなくなったが、原因は極端に質素な生活と思われる。「簡素」という言葉が藤村は好きだったので、藤村堂の入場券には藤村の文字で「簡素」と書いてある。病気が治らないほどの簡素、小さな子供が死ぬほどの簡素、私にはその正体がわからなかった。

 藤村が洋行したのは、姪のこま子との恋愛を「新生」に書き、非難を浴びてフランスへ逃げた、と書かれることが多い。インターネットの百科事典「ウィキペディア」など、そう書いているし、藤村の父、正樹が座敷牢でなくなったので、藤村の血筋は子孫まで精神病であると断言している。
 私がウィキを信用しなくなったのは、医療関係の資料をプリントアウトして医師に見せた所、インターネットの記述は99パーセント嘘だと思え、と言われてからだ。
 数年前に、資料館で、ニジンスキーの写真を観た。先日、探したけれども見つからなくて、記念館の職員さんに質問した所、痛むのでページが時々変えてあるのだそうだ。フランスへ洋行して、ニジンスキーの写真を手に入れた。ニジンスキーってこの時代の人だったのか、と驚いたことを鮮明に覚えている。
 ヴァーツラフ・フォミッチ・ニジンスキーは1890年3月12日 ~1950年4月8日、藤村は1872年~1942年、生きている時代は重なる部分がある。
 赤江瀑の「ニジンスキーの手」という小説は、架空の物語ではあるが、戦災孤児がバレエ教師に拾われ、ニジンスキーの再来、とまで言われるが、バレエに対する執念から次第に人間性を逸脱していく。
 そのモデルとなったニジンスキーの写真を藤村は持ちかえっている。その他にも幅広く洋書を所蔵していて、なかにはアナトール・フランスの本もあった。「聖母と軽業師」などは児童向けの本として訳されているので、読んだ方も多いと思う。
 他には、藤村が作ったいろはかるたなどがある。初めて見たのは小学生の時で、旧仮名遣いが読めず、全く理解出来なかった。

 フランス行きの船「エルネスト・シモン」の中で、藤村は、次兄の広助に宛てて、姪のこま子との不倫について、初めて告白し、こま子に罪はないので、宜しく頼む旨、丁重に頼んでいる。不倫について騒がれて、フランスに逃げた、というのは少し間違っているのではないかと思った。何故、洋行する前に、本人が告白したことになっているのか、小説を読んだ人が噂をしたのだろうか。どうして船の中で書いた手紙が初の告白であったのにもかかわらず、後世の人が「スキャンダルから逃げた」ことにしてしまったのか。藤村は、「何もかもから逃げたい。忘れたい」という趣旨の手記を書いている。それは不倫のことだけではないと思う。姉が精神を患って他界している。父が座敷牢で非業の死を遂げている。兄が警察に捕まっている。友人が自殺している。娘が三人、小諸で夭折している。藤村が洋行したのは、四十二歳の時であった。
 英語教師をしていたので、英語は何とかなったがフランス語はわからない。それでも3年の月日をフランスで過ごしている。本陣に生まれ、没落を目の当たりにした藤村に、洋行の費用は調達出来ない。自費出版の版権を新潮社に二千円で売った。当時、馬鹿なことをして新潮はつぶれると言われたが、版権を得て出版した本は、ことごとく売れた。それでも滞在費までは難しく、当時のフランスについて随筆を書き、新潮社に送り、原稿料で暮らしを立てた。藤村の描写は、当時のフランスを知る上で、貴重な資料となった。

 脇本陣の主は美濃源氏土岐氏である。ちょうど、私が今住んでいる隣に八幡(土岐)神社がある。土岐一族発祥の地である。戦国時代に、斎藤道三に滅ぼされているはずだが、末裔は江戸時代まで、そして現在もつづいているのか、脇本陣の人に聞き忘れた。脇本陣の石垣は玄武という、当時としては贅をこらしたものである。貧しい農民との差がよくわかる。馬籠は坂の宿場で、格子戸の続く町並みである。山ばかりで耕作面積は少ない。そのなかで贅をこらした石垣や調度品には目を見張った。山奥にもある所にはある。本陣は明治天皇もご宿泊あそばされたほどの名家、維新まで続いた島崎家の権力が偲ばれる。(つづく)

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[2009年3月20日19時35分]

 「夜明け前」を読み返して、改めて藤村の描写力、詳細な取材力に驚く。「山家(やまが)」を通過していく人々の身分、様子、時代のうねり、青山家(島崎家)の気風、隣家の家柄、馬籠から西に開けた風景、妻籠の地形、落合宿、中津川宿からやってくる人々から受ける知的刺激など。東山道は昔の中山道で、弘法大師が開いたと言われる。

恵那山の裾野を越えて木曽の入り口から伊那に抜ける登山道、今は富士見台、そのころすでに「昔は放牧していたが今は荒れっぱなしにしている」というのだ。富士見台は昭和初期に森林を伐採して熊笹の峠、標高1700メートル前後なのだが、江戸時代末期にすでに、放置された牧場だったようだ。
 妻籠の親戚筋から青山家に嫁をもらい、「そのとき」を過ごすための離れを青山家のおかみが案内する場面がある。つまり、赤不浄の習慣を本陣の敷地内で過ごす蔵があったのだ。驚いた。

 ペリーが浦賀に来航する直前、本陣は名字帯刀の名誉に預かり、「こんなご時世で、なにかと苗字帯刀を許される」と言いながら、喜びを隠しきれない主の気持ち、隣家が高遠の藩士のであることへの対抗意識と、「うちは本陣で、庄家、代々農民を取り仕切ってきた」という誇りは、現代人には分からないだろう。
 子供に教養を付けさせよう、自分も学ぼうとするのは、やはり質素な山家とはいえ、遠く祖先が相模から移ってきて、代々この地にとどまっているのだという自意識は、私には少しだけ分かるのだ。私も山家の人間だから。

 平和、平等教育の中で、昔の気風が残っている旧中山道の世界、江戸時代には宿場の本陣や村役の人たちには、子供には乳母がいて、中津川の宿の知識人に国学を学んだり、俳諧を楽しむ余裕があった。

 檜一本切れば首が飛ぶ、という時代にである。尾張藩直轄の山林であれば、一本たりとも、人の命より重いのである。
 この命の軽さはなんだろう。人など、檜一本よりも不要のものになっている。明治維新、大正、昭和と時代が移っても、一般の生活をしている人は、落合宿のはずれに隠れた葉山嘉樹プロレタリア文学など知るよしもない。読み書きを習うことは知識階級の道楽だと思っていたのかもしれない。

 藤村くらいに家柄のある山家であれば、ルーツには執着があるのだろうか。生涯簡素な生活を好んだという、それはもともと「簡素な生活」が、木曽の庶民とはかけ離れた贅沢であったからではないかと勘ぐってしまう。簡素にできる余裕のある人の発想だと思う。
 それでも、都会の人から見れば、もっと上流階級から見れば、馬籠の本陣など、田舎の貧乏人にしか見えないだろう。
 東京、東北、小諸、フランス、神奈川と放浪しながら、血のつながりにこだわり続けた藤村を、私は謎に思う。
 それにしても、小学生の時、遠足で登った「巣山」は、江戸時代であれば、小枝を拾っただけで死罪なのだ。
 でも娘のみどりは小枝を拾う身分ではなかった。「簡素」にこだわった藤村の生活にその生を失った。
 藤村がわからない。

 
 明治天皇の名前は祐宮(さちのみや)である。 明治維新のときは十五歳だった。生まれたときに御所内では、庶民よりも医学がおくれていて、女官に産ませた子供が二十人以上いても、生き残る皇子は二、三人だった。これは、古い習慣を、維新まで守り続け、お産の時は、陰陽師の指図で、病気になった場合、坊主が来て加持祈祷していたので、死亡率が高かった模様。「触穢」と言う言葉が出てきてびっくりした。明治天皇にして、生まれたときは、苫屋に眠っていた。それは、公家邸や御所から少しはずれた所にあり、そのお陰で火災などから失われることなく今も御所の敷地内に残っている。
 明治天皇の母は女官で正式な皇后ではなかった。生まれてすぐ母親から離された。まるで「源氏物語」の世界なのだ。
 出産が触穢であることに改めて何か引っかかる物を感じた。汚れから生まれたものが人、いや、現人神と思うと非常に矛盾している気がしたが、古事記イザナミノミコトとイザナギノミコトの、冥界へ行って死んだ妻から逃げて、穢れた体を水で清める話など、妻が死んだ原因は産褥だった。お産は穢れているけど、生まれた皇子は神様ってなんだろうと思いがちだが、岐阜県の恵那山はアマテラスの胞衣が祀ってあるので「胞衣(えな)山」。ご神体はアマテラスが生まれたときの生まれたカス(胞衣が穢れたものであるなら)だ。
 御嶽覚明教の本山御嶽は、何合目か、「女人堂」がある。ご神体はなんだったか、独立峰ということになっているが、摩利支天岳、継母岳、継子岳、剣ヶ峰他いくつも3000メートル級の山が折り重なっている。昔は女人禁制だった。富士山も女性の神様の山である。女性の神様は女性が嫌いだったのか、何故か女人禁制なので、女人堂や女人小屋がある。

 話は変わるが、手塚治虫の「火の鳥」も「ブラックジャック」のピノコも、全部「母性」だと言い切る知人がいて、確かに手塚治虫の女性像は、若い女の子も重要な役柄は全員「おかあさん」のように感じる。
 「どろろ」はネタバレすると面白くないが、どろろが性別不明の子供で、百鬼丸は目が見えないので、ラストで読者が、そうだったのか、と感じる構成になっていた。百鬼丸ピノコと、肉体は全部「つくりもの」であることが似ている。

 手塚治虫はそういう「人間ではないけど人間」を書くのが好きだったように思う。「アトム」は一応男の子だが、ロボットなので性別は意味がないかと思った。作り物の体で目が見えない故に、百鬼丸は超能力があるので、妖怪と戦える。妖怪を一匹倒すと、体の一部が戻る。そこには激しい痛みが伴い、妖怪を倒し続けて「目」が見えるようになり、どろろを初めて理解出来た。

 こで明治天皇の話に戻る。「母性」と切り離すこと。これが皇子の条件なのなら、まさしく、母性は神道の「悪」なのかと思う。或いは「恐れ」、死への恐れ、死に繋がる血への恐れ、と同時に、血筋を守りたい、血へのこだわり。
 馬籠宿の村役だった家を見学させてもらうと、薩摩戦争の錦絵がそのまま壁に貼り付けてあったりして、こんなところに「西郷さんが」と思った。女将さんに「夜明け前」の登場人物のモデルとなったこの名家の子孫はいないのかと聞いたところ、女将さん後本人が、何十代目かの名家の嫁さんだった。「私がそうです」と仰る女性の一瞬の誇らしげな表情。あれこそ、私の知っている山家の誇りなのだ。

 しかし、昭和の太平洋戦争以前の「農家」は貧乏人の子だくさん、男子である場合、「戦死」している。若くして床さがりしていたらこんなに沢山の子供は生まれない。その時代は四十歳を過ぎてもお産をしていた。

 画家だった藤村の息子も、戦死している。藤村は昭和十八年に亡くなっている。
 藤村は「大政翼賛会」に入っていた。永井荷風と友だち関係であったことにも関係ある。東条英機が首相になったのは藤村の死と前後する。

 「山家」は「やまが」と読む。幻のまつろわぬ民サンカを思わせるが、山窩とも書くのでで別物かと思われる。

 「夜明け前」に「賤母」(しずも)という地名があるが、今の文庫は「静母」と書き換えられている。現実に賤母は木曽谷の地名である。
 差別なる言葉狩りして地名まで書き換えさせるのは、表現の自由に反している。

 田舎では、何代続いた家柄であるか、しか自慢の種がない。藤村は山家の人である。「自分の生まれたルーツはなにか」を辿ることが、「書くこと」だった。
 皇室は日本一の山家であるらしい。嫁入りさせられたら、現代の女性は一生苦痛に充ち満ちていなければならない気がする。

 藤村が大政翼賛会に入っていて、戦争協力したことをどう捉えたらよいだろう。私は貝になりたい。右派思想家であるなら、現代もっとも有名な人は、多分、笹川良一で、それさえ、平成生まれの人は知らないと思う。日本は水に流す国民性なので、朝鮮半島の人々のように、豊臣秀吉朝鮮半島に攻め入って、多くの人を殺し、加藤清正は極悪人として名高いことを知っている日本人などいない。

 藤村は昭和十八年に死んでいる。東条英機が首相になったのは昭和十六年。戦争協力した文化人など山ほど。永井荷風も大政翼讃会の人だ。「月月火水木金金…霧島 昇」「大政翼讃の歌…コロムビア合唱団」。神国日本の血筋に生涯こだわった藤村が、大政翼讃会の人でなにが変なのかもわからない。
 倉田百三小林秀雄も、朝日新聞も、戦前戦中戦後で主張はコロコロ変わっていたので、それも全部調べなければ語れない。
 大政翼賛会(たいせいよくさんかい)とは1970年(昭和十五年)10月12日から1945年(昭和二十年)6月13日まで存在していた公事結社。国粋主義的勢力から社会主義的勢力までをも取り込んだ左右合同の組織である。

 ちなみに、被差別民の専門書を出版している解放者系の本では、藤村は「差別をした」張本人である。徹頭徹尾、藤村は自分とは何かを書いた人で、戦争だから、子供が死んだから、と自分を曲げるような人ではなかったのは確かであった。(つづく)


[2009年3月21日10時34分]

 
 格子戸の古い町並みに、川上屋本店と間酒造があって、その近くだった、キリスト教会と図書館の近くだった、と直射日光の下を歩き回ると、汗びっしょりに。まるで観光客というそぶりで、クリーニング屋のおじちゃんに道を訊いたところ、「マルサンの向こう」と言われ、お礼を言ってから、探したがわからない。その後マルサンとは間酒造の事だと気がついた。屋号が「○に三」 昔ながらの書店で、脇本陣の話を訊いた。脇本陣の記念館に藤村の父、正樹の国学を研究している人がいるらしい。脇本陣は見学したあとだったので「そういう人は見かけませんでした。」と伝えると、にっこり笑って「ああ、あの人は無愛想に研究に没頭しているので、受付から見えない場所で研究しているんです。観光客の投書がありまして。」
 島崎正樹の蔵書と作品は、数年前、馬籠宿の槌馬屋さんの倉から大量に見つかり、まだ解読されていないのだ。そしてこれからももっと資料が見つかる可能性がある。
 槌馬屋さんなら、子供の頃に行ったことがある。私の母の同級生がそこで働いていた。馬籠は大変な坂道なので、槌馬屋さんでお茶を頂いた。母は中津川市恵那市の真ん中にある辻原という田舎で生まれ、落合宿のはずれの家に養女に出された。「夜明け前」に出てくる十曲峠の近くである。
 槌馬屋さんの二階に資料室があり、見せてもらう。和綴じの四書五経、島崎正樹が書いた漢文の掛け軸、当時の米相場と石高などの資料と共にある漢文が読めない。
 中津川宿の脇本陣にあった平田篤胤の手書きなど、流麗すぎて読めなかった。中津川市は幕末と明治の資料の宝庫なのだ。
 桂小五郎木戸孝允)が隠れていた宿や、国学者が行き来した足跡もあり、新選組の前身、浪士組も中山道を通って江戸から京都に行ったのだ。

 槌馬屋のおかみさんに訊いた所、槌馬屋さんは明治の大火からのがれた貴重なお家で、おばあさま同士が姉妹の姻戚関係だということ。
 それで倉から最近になり島崎正樹の文献が大量に発見された。藤村の生前に見つかっていれば、藤村の作品にも影響はあったとおもわれる。

 「初恋」のモデル「おゆう様」の写真もあった。「初恋」に出てくる「林檎」を馬籠で見たことがなかったので、仙台方面へ教師として赴任したとき書いたのかと質問したら、ふるさと馬籠をイメージして書いた物だということだ。昔の旅籠には旅人が勝手にとって食べても良い果物が植えられていたそうで、その中に林檎もあったと……観光客から質問されたときの対応策を、組の衆で話し合ったんじゃないのか、とおもった。落合宿のはずれに「桃畑」という地名で、桃を売っているが、林檎はない。
 でも、なんとなく「十二国記」(小野不由美の中華風ファンタジー)を連想した。妖魔が襲ってこない樹、というものがあり、旅人はそこで休むのではなかったかと。
 おかみさんの仰るには、藤村堂の資料の多くは、槌馬屋さんから移されたらしい。藤村堂では皆さん大層、藤村を誇りに思っていらっしゃるので迂闊なことは言えないと、と正直に質問した。
 「藤村の作品は小説です。地元の人が読むと違う感じがするでしょう?」と仰るので、「はい、『夜明け前』も『破戒』も自伝的な感じはありません。自然主義文学には見えません」と申したところ、「そうなんです。『戦争と平和』(トルストイ)と並び称されるほど、世界的に評価された時期がありました。そのころは資料館だけで食べて行けたのですが、もう店をだしてもやっていけないので、売ってしまおうと思ったんですけど…でも、物事には裏と表があります。藤村堂で表の光だけを展示するなら、影の部分は私どもで持っていよう、ということになりました」

 藤村は「自然主義文学」、「私小説」という定説を見直すべきではないか。「初恋」もかなりのフィクションであり、ネットの詩人が「自分語り」と忌み嫌って、「駄作」と呼ぶ「初恋」は今までの解釈とは正反対かもしれない。 槌馬屋さんで見た和綴じの「詩経」を目に浮かべ、藤村堂で買った詩集の朗読(寺田農・朗読)のCDを聞きながら帰ってきた。
 聞くだけだと、藤村の詩は頭韻、押韻を意識し、多くが「決まり文句」。「方丈記」の無常や、「詩経」の漢詩、果ては、キリスト教的な表現まである。藤村は、父・正樹から四書五行を九歳まで習い続け、東京に出てからはキリスト教の影響を受けている。朗読を聴いていると、そういう知識の集大成になっていて、あまり、つぶやきたれなが詩にはなっていないように感じた。 藤村は七五文で、朗読に向いていると考えていたが、寺田農の声を聞いていると、やっぱり文字を見ないとわからない。朗読のための言葉と見るための言葉は分別されている。

縫子、孝子、緑

 島崎緑は九歳(数え年と思われる)で病死した。妹の孝子は四歳で、その妹、縫子は二歳(一年生きたかどうか不明)で、若い順に死んでいる。父親の島崎藤村は、海外のゾラやトルストイドストエフスキーの影響を受けて、社会と人間の内面を描いた「破戒」を書いたと言われている。小諸で執筆し、妻の冬子の実家、函館で金策して、東京に帰ってから自費出版した「破戒」は評判を呼んだ。
 島崎みどりは、文学に打ち込んだ父親の甲斐性無しの所為で死んだと感じた。文学を、妻の実家に無心して、栄養不足で子供が死ぬほど「簡素」にして、書く価値とはなんだろう。
 藤村堂の切符きりのご婦人に「藤村は、こどもについてどう思っていたんでしょうか」と質問した。「たいそう可愛がっていらっしゃったんですよ、『家』などの作品にも描かれています」とのことだ。 どういう風に「愛して」いらっしゃったのか、知りたいとおもう。
 藤村の場合、姪のこま子が藤村との不倫の暴露本を出版し、共産主義の活動をした。そのあたりに、藤村は自責の念と、忸怩たる思いを抱えて、なるべく文壇の名誉職には就きたくなかった。
 藤村の父、正樹というひとが、大層学問に入れ込んで、政治活動をして、身分を失ったので、本陣は人手に渡った。生まれも思想も、超お坊ちゃん的だが、明治維新をきっかけに、没落していったのだ。
 藤村の詩は、詩経や、日本の古典、キリスト教、赴任先の自然や家族への愛、そして女歌的創作であったりする。女性の社会的自立について、非常な理想のある人だが、男性特有の悩みなのか、女性も同じであるのかわからないけれども、何度も不倫や禁忌の恋愛沙汰、同族間の恋愛を繰り返し、父と姉は狂死している。そういう恋愛のドロドロした所が今ひとつわからない。
 函館から嫁に来た冬子も亡くなり、藤村は五十代に三十代の女性と再婚している。因習的な家父長子制度と家の存続の犠牲になり、苦労の挙げ句に狂死した姉を思ったのか、女性の社会的地位の向上も視野に入れていた。ところがいざ生活となると、藤村自身も因習に縛られて身動きできなかった。
 藤村は社会派の文学者だとおもう。「東方の門」は鳴滝塾シーボルト鳴滝塾の弟子たちの時代から、明治維新に至るまでの話を書こうとしていたようだが、絶筆なので続きはもうわからない。
 藤村の詩集は、藤村にしかほんとうの意味はわからないが、読む側も藤村と同等の知識を要求される難しいものだ。藤村以前に翻訳の自由詩などはでていたが、それまで詩といえば漢詩である。近代詩の創始者と言っても過言でないと思うが、いまや、現代詩を書く人で、藤村が詩人であったことを知る人さえない。知っている人も激しく誤読する。
 子供の頃から中津川を出てからも、ずっと中山道と共に生きてきた。馬籠宿、落合宿、中津川宿、大井宿、大湫宿と。大湫宿はかの「妖怪口裂け女」を排出した無名の宿場町。
 中津川を歩くと普通に桂小五郎の足跡があったり、薩長と密談した旅籠の跡がある。私は明治の気風を自然に身近に持っていたのだろう。
 藤村が最初に自費出版した本を絶賛したのは夏目漱石だった。島崎藤村は明治の文豪であり、昭和の文豪である。激動の時代に翻弄された異色の人で、わかりづらいとおもわれる。
 ファシズムの風吹く昭和に芸術院会員に推され、一度は断ったものの、言論の統制厳しく、どうしても会員にならざるを得なかった。軍人から宴会の誘いがあっても、断った。綴方教育弾圧、振興俳句弾圧、プロレタリア文学の取り締まり、その流の中で「大東亜万歳一唱」の音頭をとらされたときの、記述を読むと、一生を「自分とは何か」、社会とおのれのあり方を問うて、晩年になってファッショにかり出された落ち込みが感じられた。
 明治、大正、昭和と激変した時代を生きて、さぞ苦しかったとおもう。藤村よりは、左翼思想で投獄された河上肇の方が、思想的に立派な感じがするかもしれない。経済学者で詩人の河上肇とも交友があった。「老後無事」他の河上肇の作品と比べて、藤村はなにかはかなげに見えた。河上肇の、あの潔い清貧を誇る文章と、藤村の「簡素」は遠く見える。
 藤村の最後の言葉は、「涼しい風だね」。なにとなくやさしいきもちになるのは、私だけなんだろう。